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「生き物らしく、人らしく暮らしたい」(プチ自叙伝) [コラム]

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(黒米の手刈り体験のあと、足踏み脱穀機を説明しているところ・・・、だったかな?)

就職活動は一切やらなかった。
 「自分がこの先少なくとも40年、心の底からやりがいを持って頑張れる仕事は何だ?」
大学3年生、二十の頃、このことをたびたび自問自答する中で、自ずと出てきた答えが、
「豊かな自然のある田舎での自給自足的な暮らし。」だった。もちろん金銭面の事も考えなかった訳ではないが、「自分で家を建てて、農業で飯が食えればそもそもそんなにお金を稼がなくたってやっていけるんじゃないか。」そんなふうに思った。
高校生の頃より環境問題、温暖化といったことに強く関心があり、自分自身も含めての都会の暮らしぶりに疑問を感じていた。そして当時蔓延していた「学歴社会や大企業への就職=安定」といった価値観に対する疑念が大きく、そんな中で大学在学中にはバブルの崩壊から大手銀行の破綻などの社会情勢が重なり、「そら見たことか!安定した職業などそもそもあるはずがないんだ。」「戦後わずか50年足らずの常識が、その先永遠の常識であるはずは無い。」という風に自分の想いが確信と変わってきたように思う。
「自分自身が豊かな自然の中で胸を張って生きていけるような暮らしをしたい。」
 そんな一途な想いは揺らぐことなく、大学を卒業するとひとまずアルバイトに励み、9月頃にようやく軽自動車を手に入れたその翌日にはテントや寝具そして釣竿を詰め込んで清流の町、美山町へと乗り込んだ。
以来19年、まさに水を得た魚。美山にやって来てから今に至るまで、新しい発見、喜び、そしてやり甲斐に溢れ、自分自身の生き様においては一切悩んだことはない。そして何より豊かな自然に生かされているということ実感する暮らしの中で、ますます今の都会の自然とかけ離れた暮らしぶり、有り様を懸念する気持ちが高まるばかりだ。
このままでは地球は持たない。美山に暮らしながら、自然の中で生きるということの大切さをどうようにして多くの人に向けて発信していけるのか、自分に出来ることの中でこの課題と向き合っていくことがそのまま僕自身の人生の課題となった。

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(直径140センチのナラの大木を伐採するところ。さすがにビビリながらやりましたが、なんとか成功。一年寝かして立派な板が取れました。)


私の子供時代はまさに高度成長期。カチャカチャとダイヤルを回すレトロなテレビがいつの間にかリモコンになり、テレビゲームが当たり前となっていった時代だ。私が育った大阪の枚方は新しいベットタウンとして開発され始めていた都市部の郊外に当たるが、当時には自宅の周辺には田畑や雑木林が多く残っていた。そのおかげもあって、小学生時代には雑木林へのクワガタ採りや、溜池での魚釣など、田舎育ちの子供たちと同様に自然にたくさん触れて育った。「三つ子の魂百まで」とは良く言ったもので、今の私の価値観の基礎はこの頃に形成されたのだと確信している。食べるものは体に悪そうな着色料やケミカルな味に溢れた時代だ。子供の頃から好き嫌いはほとんどなく、どちらかといえば野菜なども含めて健康的な食材、味を好んでいたと思うが、私の体はケミカルにどうやら弱く、アトピー性皮膚炎などのアレルギー症状があって、軽度ではあったものの大人になるまで悩まされ続けた。アレルギーの原因は食べ物にあるということをいつの頃からか意識するようになり、「食」についての強いこだわりはアレルギーを持っていたことによって育まれた。
美山で一人を暮らし始めてからマヨネーズやドレッシングのような化学調味料が添加されている食品を一切絶ち、素材の味を大切にできるように味覚改善をしようと思い、徹底的な薄味に切り替えた。それはストイックと言える程のレベルだったが、その甲斐もあって、皮膚炎、花粉症などのアレルギーは次第に改善され今ではほぼ無くなった。ちなみに自然の中で目のトレーニングもしていたら学生時代0.1しかなかった視力が1.0まで回復した。
さすがに30歳を過ぎて身も心も丸くなって来たせいか、20代の頃のようなストイックさは無くなっているが、当時に心掛けたことで、食に対する考えを確信とすることができたし、何より私たちの二人の子供たちに全くアレルギーが無いことは、当時からの信念に従ってやってきたからこそだと自負している。

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(昨猟期一番の獲物と私。この写真、ちょっと太りすぎてて・・・、猪でなく私が。身も心も丸くなってはダメだよね。ということで、春からの減量で5キロ痩せたもんね!)

「お金は要りません。寝床と飯だけで使ってもらえませんか。」
そう言って、セルフビルドでログハウス風の建物を建てていたIターンの方のところで居候先を見つけた。ここから僕の田舎暮らしが始まった。
居候先では隙間だらけの板張りの倉庫の中で、思いもよらなかったマイナス10度を下回ることもある美山の冬を越すことになったが、あまりその事が苦労だったように記憶はしていない。それ以上に初めての雪の中の暮らし、自然の中の暮らしの楽しさに心躍っていたように思う。そしてその冬に僕の暮らす倉庫の床下で生まれた一匹の犬との出会いが、僕を猟師という生き方に導いてくれる掛け替えのない財産となった。たった今はその犬の7匹の子孫たちが立派な猟犬として年間数百万円を生み出す田歌舎の狩猟の営みを支えてくれている。

居候の時期に地元の方との出会いを通して、美山で暮らしていける足がかりを持つことができた。春には北側の屋根がずり落ちて星が見える廃屋ではあったが、それでもなんとか一人住居できる家を貸してもらうことができた。そしてアルバイト先としてお世話になった家族経営の外田養鶏場では、養鶏の労働を通して僕の人生の根幹の部分が育まれた。体力的なことはもちろんのこと、養鶏にまつわる様々な作業には決して言葉で表現できない工夫、知恵に溢れていて、人が生きていく上で「本当に大切なものは何か」ということを、身をもって学ぶことができた。今の僕の「芯にあるもの」はここで育ったと思っている。そこではさらに1反の田んぼを貸してもらい、稲作、野菜作りを教わっただけでなく、郷土食、漬物作りなど様々な山村の生活の技術と知恵を教わった。若い未熟な僕を実の息子に接するように叱り、育ててくれた今は亡き養鶏場の親父さんお母さんには感謝してもしきれない。
農業はもちろんのこと、ニシン漬けなど美山独特のものも含めた保存食作りなんかもそんな20代の頃からずっと続けているが、それなりに積み上げた経験値は自負しているものの、ますます奥が深く、発見もあり、何より面白く、美味しく、嬉しくて・・・、
「食べ物を作ること」これは生涯飽きることはなさそうだ。

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(2012年2月中旬。八角形のログハウスを建築中。今はレストランとしてオープンしています!)

普段は一人きりで小さな仕事をしていて、大きな建物の発注が入ると仲間が集まって基礎から屋根までのほとんどの工程を少人数でやり遂げる。完成すると次の発注までは解散する。そんなスタイルで建築をされていた一人親方に出会った。この親方のもとで一軒の家を建てるための一部始終を教わることができた。在来工法の建物とログハウスの2軒の建築を通して、細かい技術は抜きにして「家を建てる」ということの全体を掴むことはできた。その後25歳の時には、山林の荒地を地元の方に借りて、そこに小屋のレベルではあるが、10坪ほどの自分自身の家を建てた。自身初の作品ではあるが、現在も田歌舎のスタッフがそこに暮らしてくれていて健在だ。
大工仕事に携わる期間、養鶏場のアルバイトに大きく穴を開けていたのだが、そんな僕のささやかな大工仕事にしっかり目をつけて、養鶏場のアルバイトに戻るや、日常業務の隙を見ては鶏舎の補修や何やかしらの大工仕事が僕の使命となった。いつの間にか養鶏場だけでなく集落の中で色んな補修仕事などを頼まれるようになり、あるときは元大工のお爺さんと一緒に仕事をしたり、左官を教えてくれるおじさんが現れたりと、色んな技術を持った田舎の親父達には最新の道具に頼らない昔ながらの様々な技術を叩き込まれた。そして当時の僕の大工仕事はほとんどが糞掃除、ゴミやガレキの整理整頓、廃屋の解体など大工の前にすべき仕事とセットになっていた。このことがますます僕の生きる力を育んだのは言うまでもない。たった今でも決して好きではないが、解体作業やそこから生まれる廃材利用などは得意分野だ。

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(大きな一本丸太で階段を作っているところ。宿泊棟のロフトへの階段です。)

アウトドアガイドという仕事の可能性を示してくれたのは、ハーブガーデンとショップを営みつつトレッキングや沢登りのネイチャーガイドをされていた浅野目さんだ。「自然を案内してお金を稼ぐ」という仕事を認識していなかった当時の僕にとって、まさに目からウロコだった。まもなくラフティングに出会い、以後30歳の頃までは夏の週末は徳島でラフティングガイド、平日、夏以外は美山で養鶏場や農業、大工といった暮らしことが続くことになり、週に一度も休日はなかったはずだが、やりがいがあって楽しくて充実した時間だった。ところで浅野目さんのところでハーブ料理を学び働いていた女性が後の僕の妻となるのだから、その出会いが大きかったことに疑いの余念はない。

26歳の時、結婚をした。経済的にはどうしようも無く貧乏だったが、「田舎での暮らしには家族が必要だ!」と強く感じていて、今から思えばその気持ちが暴走したのだろう。嫁さんの親はさぞ心配だったろうな。
先に示すような生活で、年間200万にも満たない稼ぎのなか、自分で建てた小さな城でまもなく長男が生まれ、まだまだ下手くそだった田畑で採れた食べ物以外には魚一匹買うのも躊躇われるような生活だった。
「子供が小学校に上がるまでが僕に与えられた猶予期間だ。」
そんな風に考えて、目先のお金儲けにとらわれず、今のまま色んな自分のスキルを上げていくことで道が開けると信じていた。
 30歳を前にして、ようやく「独立」を意識するようになった。トレッキングや沢登りなどのガイドにプラスして新たにラフティングを美山川で興すこと、自給的な暮らしと嫁さんの料理の技量に頼って小さなスローフードレストランを興す事。それらが合わさって個性的なお店が作れるのではないか。そんなビジョンが見えてきた。
 ちょうどその折、実兄が実家の相続をするということで数百万の財産分与を親から受けた。まさにそれを好機と捉え、思い切って今の田歌の土地を地元の人の縁を通じて手に入れた。実は土地代だけでほとんどのお金がなくなったのだけど・・・・、
「自由に使える土地さえ手に入れば、建物はなんとかなる。」
「借金さえしなければ、倒産もしない。」
古い鶏舎を解体した材でまずは広い作業場を建て、そして板倉づくりという経済的な工法で2階建ての自宅を建てた。
 その頃には僕を応援する気持ちもあってか、何軒か大きな建築仕事をいただけるなど、少しずつ稼げる金額が上がってきたことで、この時期の出費に耐えることができた。少し稼いだお金で、中古のラフティングボートを手に入れて一艇だけのラフティングカンパニーを興し、また少し溜まったお金で軒出しをして小さなレストランを始める。
 そうしてだんだんと田歌舎の骨格が出来上がってきた。

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(きょうとグリーンファンドとの連携で田歌舎に10kwのソーラー発電が設置されました!)

 その後、地域の有志で立ち上げたNPO法人芦生自然学校にも携わり、そこから全国のネットワークへと人脈を広げることができた。そうして若いスタッフを少しずつ集めて、団体としての田歌舎や自然学校の運営ができるようになってきた。今ようやく経済的には一つのステップを超えたように感じてはいるが、すべての営みにおいてまだまだ発展途上に有り、集まってくるスタッフたちの支えにもなりながら、ますます自然と絡み合う生き物としての人の暮らしを楽しみながら追求したいと思う。そして地球の環境のこと、原発事故などを通して感じる日本の行き詰まりに対して、今以上に私たちに出来ることを強く発信していきたいと思っている。

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