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大飯原発30キロ圏内の町に暮らす [環境]

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(たくさんの人が訪れる清流美山川と夏の電力、本当に大切なのはどちら!?)

豊かな自然に魅かれて美山町にやってきて早17年がたった。去年のあの日まで、こんなに近くに原発があるにもかかわらずそれほど危機感を募らせてはいなかった。というのが実のところ。もちろん反対の意思はあったのだけど・・・。

なんらかの自然エネルギーを取り入れて、食住+エネルギーの自給というのを以前より理想としていた。ただ経済的に段階を踏んで無理をせずに移行していければと思っていた。今までに自然学校のキャンプ場には水力発電の設置を呼び掛けて、500ワットの発電システムを設置したり、田歌舎にも6年ほど前に、ソーラー発電を取り入れようと、見積もりまで上げてもらった経緯もあった。でも結局、経済的に厳しくてその時は断念した。

 あの地震があって、そして福島の惨状を見聞きして、こんな事になるんだって事は分かっていたつもりだったけど実は分かってなかったんだと今、ようやく気がついた。
だってこんな事になると分かっていたら、たったひと山ふた山を越えた先にある原発を知らん顔して過ごすことなんて出来るはずないのだから。

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(美山の山の尾根からは舞鶴の海が見える 大飯原発はもっと近くにある!)

「原発を止めさせなければならない。」
この事は機を待つとか、周りの動きを見ながらとか、そんな悠長な考えではいけないことだと思う。確かにただただ反対を叫び、さまざまな窓口に言い争いに行くようなやり方では上手くいかないことは分かっている。先日大飯原発の再稼働を認めた政府のように反対運動なんて無視されるばかりだ。だけど、それぞれの立場で出来るちょっとでも「ましなこと」があるのなら、この原発ということに対しては遠慮したり、二の足を踏んでいてはいけないと思う。

 僕に何ができるかと考えた時、まず田歌舎が自然エネルギーを導入することだと考えた。クリーンエネルギーへの転換を人ごとにしない。お金が厳しいということをいつまでも理由にしていてはならない。多少無理してでもやらなければならない事だと心から思った。
まず自分が設置して、そしてみんなに呼び掛けよう。
「新車を買う金があれば先にソーラーを設置しよう!」
「新築する時は必ずソーラーを設置しよう!」

やっぱり経済力が無い人には強要出来ないことだと思う。
だけど新車を買える人や新築が出来る人はちょっと無理をしたらソーラーを買えるはずだ。
父「やっと家も自然エネルギーを導入できたよ。これで胸を張って生活できる。」
子「次はハイブリッドカーだな、父ちゃん!」
そんな風に自然エネルギーの導入が家族の誇りだったり、ステータスに感じたり、そんな価値観を作り出していけたらいいなと思う。逆に、自然エネルギーを導入もせずに高価な車に乗って自慢げにガソリンをまき散らすような奴は世論として軽蔑される。そんな価値観に変わっていかなければならないと思う。
 
 なんとか軌道に乗ってきたのかなというくらいの田歌舎。だけど昨年から新店舗を建設していて出費も多いので、今年無理をしたらスタッフたちへの給料の支払いが滞りそうな可能性も・・・。
「もう待てることではない。やらせてほしい。」
スタッフたちは理解してくれた。
もうあれから一年経った。このまま思っているだけでは終わらせられない。

 なぜ大飯原発が再稼働をしてしまうのか。それは政府の所為だとひとくくりにはできないと思う。きっと原発が自分たちの経済(安定した暮らし)に関わっている人、それぞれが決心できないからだと思う。

「働く人全員が原発は間違っていると思えて、職を失ってもいいと思ったら、誰も原発を動かす人はいなくなる。」

「地元の人皆が、原発マネーを放棄して地域の経済が一時苦しくなったって、子孫の為にも安全を守らなくてはならないと心から思えたら、住民の皆が勇気を持って反対出来たなら、原発の無い大飯町に戻れるはずだ。」

たしかに大飯町の多くの人にとっては、原発を動かせないとなると経済的に厳しい局面がいたるところで発生するのだろう。原発が廃止になってやってくる不況なんてドカンとなった福島の人たちの苦しみに比べてなんと小さなことだろうと考える人もきっといるだろうけど、でもきっと心の奥底からそう思えてないのだ。だから長いものに巻かれてしまう。
「止むを得ない」
と考えてしまう。

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(今関東地方のものは絶対に食べたくない。助け合うという気持ちで食べるというのは間違っている。関東の人たちには申し訳ないが、危険かもしれないものを、安易に受け入れるのはダメだ。政府の出す指針とかではなく人間の本能をもっと発揮しないと・・・。原発が怖い。セシウムが怖い。そのシンプルな気持ちを大切にしないと・・・。京都府の被災ゴミの受け入れも絶対に反対。)

美山町に住む僕にとっては、再稼働しようがしまいが経済的には関係ない。大飯町の人にとって私たちは外部の人だろう。だけど30キロ圏内に暮らしているのだ。ドカンといえばまず間違いなく田歌での暮らしは終焉を迎える。

どうやって大飯町の人の心を動かせるのだろう。もちろん大飯町だけでなくて日本中の原発に関わるすべての人の心を動かさなくてはならない。そのためには直接関係が無いように暮らせている私たちこそが何もしないままでは駄目で、経済的な負担を掛けてでもクリーンエネルギーに変換することが大切で、原発はなくすためには経済的負担も止む無し、という思いを態度で示さなくてはならない。

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(豊かな自然と暮らしが脅威の元にあるなんて絶対におかしい!人任せにしない。出来ることから始めよう!)

 自然豊かな美山町というPRを止めて、
「大飯原発30キロ圏内の町、美山町にようこそ!」
~美山町民は原発反対の意を示すために、自然エネルギーの町を目指します~
まずは美山町でこんな流れを生み出してみたい。

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「アカショウビンと真夏の紅葉!?」 [環境]


(一見美しいただの田舎の夏の景色ですが、森の木々を見てみて下さい)
 毎年初夏の頃になると南の島からなんともトロピカルな美しい鳥が美山の森にやってくる。鳥の名はアカショウビンと言って、川の宝石と呼ばれるカワセミや白黒模様が愛らしいヤマセミなど仲間で、鳩よりも大きく全身が真っ赤でさらに赤色の濃い大きな嘴をしていてる。見かければ誰でも判別が出来る派手な鳥なのだが、ほとんどの時をうっそうと茂る薄暗い森の中で過ごしているので、まず姿を見ることが出来ない野鳥でもある。
 ただし意外と数多く生息しているようで、早朝や、雨天時になるとまるで電子音のような、かなりの大きな声でキョロロロロロロロロ~~~と鳴き、その鳴き声だけなら美山町内どこででも聞くことが出来るのだ。
この夏は会いたくて~会えなくて~♪♪ 憧れ続けたアカショウビンに二度も遭遇する事ができ、その美しい容姿にとても感動した。

 さて、そんな風にまだまだ嬉しい出会いや、感動を与えてくれる、一見豊かで、懐深い美山の森の中にも、一方では近年の温暖化や酸性雨による影響がでており、軽視できない自然環境の悪化が進んでいる。温暖化などに起因するナラ枯れ病、増えすぎたシカによる下層植物の食い荒らしは深刻なレベルで進んでいる。また急激になる一方の気候と下層植物の衰退の二重の原因から相当な表土の流出、頻繁な土砂崩落などが山中の各所で起っている。
 そしてそれは山だけの問題ではない。淵や瀬の連続の中で織り成す多様な地形こそが豊かな渓流の生き物の生息環境であるその渓谷や河川は年々土砂で埋まってきている。源流域では大岩、小岩が形成する「洞(うろ)」が必要なヤマメやアブラハエといった渓流魚は明らかに衰退し、また本流では鮎にかつてのような繁栄は見られず、年々悪化をたどる状況に漁協や釣り人は頭を抱えるばかりである。

 このような自然環境の悪化。それは急激でもあるし、決して軽視できるものではないレベルである。しかしながら、そこに暮らす人、また、関心を持って暮らしている人以外には、まだまだ見えない、いや、見たくない? 避けていれば見えずにすむ。そう、たった今のところは知ってもらいたくても、知らずにすんでしまっているレベルでもあったのだ。

 そうしていよいよこの夏、誰の目にも明らかな顕著な現象が、美山の山林に起っている。


(上の写真のどんぐり紅葉部。拡大です。下部の健全な森はおおよそ杉の植林です。)

「真夏に紅葉」が始った。

 山腹の各所が紅葉している。場所によっては山の斜面の3分の1ほどもそうなっている所もある。本来無関心であろう観光客ですら「もう紅葉が始ったのですか??」なんて相変らずトボけてはいるが、さすがに一応は「おかしいな???」とは思う状況である。

 実際のところはナラ枯れ病の蔓延が次のステージ(悪化の段階)に進んだのだ。

 5,6年前から知る人の中で騒がれ始めたナラ枯れ病は、ナラ(どんぐり)の仲間でもミズナラという比較的湿潤な谷周辺に多い種類にほぼ限定されて蔓延し、今では明らかに美山の森の50%以上のミズナラが枯れ、絶滅に向かっている。そのナラ枯れ病は一部の学者はミズナラにしか蔓延しないと言っていたにもかかわらず、ここ数年では、ミズナラ以外のナラ(どんぐり)の仲間、コナラ、クリなどにもうつり始めた。そうして今年、コナラのナラ枯れ病が大ブレークした。

 コナラは美山の森の中でおそらく最も多いどんぐり(ブナ科)の木である。全森林のなかでもかなりの割合を占めている木で、それが一気に枯れ始めたのだからさすがに誰の目にも明らかなほど、山がいたるところで赤茶けている。美山に来て、山を見上げれば、無知・無関心な人でも相当な人が気付くレベルだ。そうして、今はまだおおよそ健全に見えるアベマキやクリにも明らかに病原菌とそれを運ぶ害虫は進入しており、更にこの秋も、また来年も、この「異常な紅葉」は進行するはずだ。
 今年のこのブレークについては個人的な、勝手な見解ではあるが、記録的な小雪だった昨冬の暖冬により、本来一定数淘汰されるべき病源菌とそれを運ぶ害虫が生き残ってしまい、この夏にその繁殖、拡散とともに急激に蔓延したのではないか考えている。つまりこのナラ枯れ現象も温暖化の副産物だという事だ。

 さてちょっと観点を変えてみて・・・・、
だいたい美山では平均的な大きさの1枚(1a:20m*50mくらい)の田んぼからは約400キロのお米が収穫できる。年間で一人当たり平均約90キロを消費するので、4人家族ならば、1家族分+@の収穫に当たる。毎日毎日食べるお米なので、都会の人たちが根拠無く想像するだけでも相当な量だと想像されるだろうお米の生産は、意外にも思えるほど小さな面積でまかなえているのだ。本当にお米は偉大である。私たちはこの小さな田んぼと、とても優秀なお米という植物によって生命を支えられていると言っても過言ではない。

 お次は森のクマさん。
さて、1本のコナラからどれくらいのドングリが生産されるのだろう?
さすがに僕もはっきり想像がつかないし、また熊さんはどれくらいのドングリを必要としているのだろうかも知らないが、きっと田んぼと同じように相当な量を生産しているのだろうな・・・・・・・。

そして少なくともいま紅葉しているコナラにはドングリは出来ない。
(枯れる前に出来かけて、熟していないものは一定あるかもしれないが・・)

この紅葉する森を見るだけで、相当な量である事は容易に想像できる。
そうしてまた容易に想像できる事は、この秋の熊さんの「食糧難」だ。森の食料が不足すると、民家近くの柿やクリを目的に里に下りてくるのできっと今秋も恒例の「クマ騒ぎ」になるだろう。近年そういった状況が豊作凶作に応じてほぼ2年周期で繰り返されているが、学者が謳っていた生息数よりも多くのクマが出没し、またその生息数以上の熊たちが害獣として、駆除されている。また、この秋もそういった感じで日本の各地で害獣駆除される事だろう。そうしてある時、山のドングリとともにたくさんいるはずだったクマさんも姿を消してしまうのかもしれない。

 熊を守るためには熊を守るのではなくてドングリを守らなくてはならない。

 再びアカショウビン。
こいつらは基本的に小魚やサワガニまた、カタツムリなどが主食である。
下層植物の衰退により森林のカタツムリは減っているかもしれない。また、土砂に埋まる山間の小さな谷の魚たちも減っているだろう。
ただし、沢が埋まっているような所が得意なサワガニはむしろ増えているかもしれない。
また、早朝などには里にでて捕食活動をするので、里にはカタツムリも事欠かずいるはずだ。同じく広い流れにでればまだまだ魚にも事欠く事は無いだろう。そう考えると今のところその餌に事欠く事はなさそうでもある。

 一方、渡り鳥でもある彼らは冬はフィリピンからインドネシアの辺りで生活をしている。
そこにはまだまだボルネオ島のような原始的な森も多く存在し、事欠かず生活ができているかもしれない。が、やはり東南アジアも中国と同様に近代化が進み、かなりの開拓が進んでいるという。きっとその国々の人々の大半は、日本人の大勢と同じように、アカショウビンの事などは露知らず、近代化を受け入れ、より快適に暮らせる事に喜びを感じている事だろう。

 今はまだたくさんいるアカショウビン。
「ああ、近頃はあっちもこっちもすっかり棲みにくくなったな~~~。」と会話しているかどうかは知らないが、あと何か歯車が狂えば、突如としてこの美しく愛らしい鳥が、たった今のドングリの木々と同じように、この美山の森から消えうせてしまう。
そんな気がしてならない。


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「気候について」 [環境]


(昨年の豪雪でつぶれた山小屋の前にて。今年はご覧の通り。3月中旬のガイドでの昼食中)
 やはりこの冬の気候について文章にしておきたいと思う。
2月末にエルニーニョだかなんだかが終息したということが影響してか、ここに来て本来の寒さが戻ってきた。
というか、今朝にかけても新たに10センチほどの積雪があり、例年より寒い3月中旬になっているようだ。

 明日は春分。
もう太陽はかなり高くなってきたのに、こうやって寒い時がある反面、2月末から3月のかかりには、Tシャツで日中働いて汗かいていた日もあった。ホント、変な気候だ。近頃の夏のことを考えてみても、残暑とか言って秋分の頃に30度を越したりする。

 日本の気候は、太陽の長短以上に、気象が流れる道筋や、速度を作り出すヒマラヤ山脈などの巨大な山脈、また大気の温度や湿度に多大に影響を与える日本の周りを囲む海などの地理的条件に左右されて出来ている。ただそれが一定のパターンを保つ中で、私たちは暦の中に「立春」あるいは「啓蟄」のように正確な気象の移ろいを解りやすい言葉に置き換えて、農業、漁業、食品加工などあらゆる営みのタイミングの基準にし、上手く気候の変化を利用しながら生活をしてきた。

 なのにだ。最近は予測の大本になる暦が当てにならないほど、この気象のパターンが崩壊している。
そして、この危機的な「気象の崩壊」についてもっと人々は危機感を感じれないものだろうかと思うのだけど、相変らずおバカなほとんどのTVの天気予報では「歓迎すべき寒い日の到来」を「悲観的に」報道している。本来ならば笑顔で「明日はようやく冬らしい厳しい寒さの到来です。冬は冬らしく寒い日が来ないとダメですね!!」とか、それこそ悲観的に「明日もあまりにも暖かい日が続きますが心配ですね」ぐらい言ってほしいものだ。そんなアナウンサーがいてこそ、少しずつでも一般の人に危機感が広がっていくというものだ。

 草木の「狂い咲き」で、野菜を植えるタイミングを計り損ねたり、野鳥の「狂い鳴き(さえずり)」ですっかり気分も春になり、うっかりノーマルタイヤに履き替えて、いまさらの雪で出掛けられずに休日に家に閉じこもっている人がいたり・・・・。そんなことを身近に感知することが出来る私たちの生活は本当に「マシな生活」だと思う。ほとんどの日常が「暑い寒い」だけでしか気象の変化に対して用事の無い人ばかりなのだから。

「うちの庭で3月初旬に咲き始めた梅にはいまさらの寒波で虫が来ないので、あまり実をつけないだろうな。」
「こぶしのつぼみがもう膨らんでいるけど、今年の野菜の種まきの時期が読めないな」

「雪解け水はほとんど無いから、今年の田んぼの引水には苦労しそうだな」
「それこそ我が家の水源の湧き水が枯れるなんてことはないだろうか」

「ミソサザイやホオジロ(野鳥)はもうさえずっているな。こいつらの求婚時期は狂っても大丈夫なんだろうか?」
「鹿は雪が無くて冬に餓死するやつもほとんどいないし、また増えるんだろうな。困ったもんだ。」

僕はそんな感じで日本の気候と付き合っています。


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